昭和48年02月12日 朝の御理解



 御理解 第13節
 「神は向こう倍力の徳を授ける。」

 神は向こう倍力と倍力と言う事。丁度手毬を壁にぶっつけるようなものですね。そろうっとぶっつけたら、その所でポテッと落ちるでしょう。勢いよくポーンと壁にぶっつけますと、又投げた所までポーンと返って来るでしょう。打ち向かうと神に向かうと言う事はそ言う事。だから限りなく向かえる工夫をしなければなりません。それを反対に楽な方へ楽な方へと、信心がなって行ったら是はもう信心の堕落です。
 それでは生きた者所謂徳を受けないですから、生きたものになっては生まれて参りません。私は今日御神前で、神様の神という字は、示す辺に申すと書いてありますよ。それを別々に頂く示すと言う事又は申すと。言うて聞かせると言うかね申すと言う事。もう示す事申す事だけが神様なのです。そこにはね氏子の言い分というものはないです。そればってんあぁたこうですけんち、言うとこは全然ないです。神様ってはそんなもの。
 昨日筑水信徒会に、秋永先生永瀬さんあたりが、おかげを受けられたんです。あちらで聞いてきた話に、ある教会でお月次祭を一回にした。その代わりにその一日の日だけは、全部店しとる者でも休んで、勿論勤めに出とる者は、第一日曜を選んであるから、全部家族を挙げてお参りをする。大変成績が上がっとるげなと言う話を聞きました。私は成る程初めの間は、四回の月次祭があっておるとするなら。
 それを段々成る程一家を挙げて信心をさせて貰うならば、その日は休みとして神様へ神恩報謝の日として一日を、お月次祭にお参りをする事によってです。一家中が打ち向かう事によってです、成る程おかげを受けるなぁと言う事実が生まれてきたら、必ず二回が三回四回になり、元通り四回になると思うですね。けれどもただ一日になったけん、楽になったという位な事だけだったらもう絶対その教会は、御比礼を落しましょうね。是は今大変御比礼の立っておる教会です。
 まぁ新しい試みです。そうでしょうが皆さん。一家を挙げて一日を休んで、一家中がお参りをする。だから大祭の様ないうならば、お月次祭が出来ると致しましょうか。そんならそうした事がです。ただ氏子の便利の為であったならば、もう是はおかげ落すです。おかげが頂かれん。けれどもそうさせて頂くという事が、成る程一家を挙げて信心させて貰うと言う事が、この様な素晴らしい体験になり。
 おかげになって来ると言う事になりゃ、そんなら一回よりも二回、二回よりも三回、やっぱり今まで通り四回。しかもその四回が、四回のお月次祭だけは、一家中が休んででもまぁ四回と言うても、日曜を選んであるから、度々の日曜日ですねいうならば。キリスト教あたりでは、そうらしいですね。礼拝日として日曜たんべんに、家族中がお礼参拝をすると言う事らしい。
 だからね神に向かうと言う事は、そう言う事だと思うね。これが自分の人間心でこうの、あぁのと言うのじゃなくて神様が示して下さる、言うて聞かせて下さるその事が神なんだ。神という字は、示すと申すという字でしまえとる。だから私共はそれをただ、畏み畏み受け賜ったらそれで良いのである。だから神の言う事をきかん者は、仕方がないと神様が仰る。神の言う通りにすればおかげになるのだけれども。神の言う事は道に落してしもうて、家では我まま勝手な事をするからおかげにならんと言う。
 私は昨日お届けされたから、気がついたんですけれども。善導寺の原さんが、この頃お参りにならないお父さんが。それは千恵子さんが、親子二人であれしとりますもんですから、子供が今幼稚園でしょうか。千恵子さん一心発起して、ある願い事が出来ました、願いを立てております。それで朝参りでもしてとこう言う事で御座いますけれども。子供が途中でおぞんだりしてはならんから、そんならお父さんあそこへ泊まって、主人が泊まってお参りをせずに、そして娘の千恵子さんを、お参りをさせると言う。
 皆さんどう思われます皆さんならどうされる。
 例えば原さんの場合なんかは、特に昌一郎さんのあの死ぬ生きるの時に、一生信心を止めると言う様な事は致しませんと言う様な、神様に約束がしてある。もう千恵子さんが参ってくるのが何日になるか、五日なら五日と言うお参りが出来ん。お参りが出来んなら、千恵子が帰ってきたら、その足でまた俺はお参りしてくると言うなら、まだ幾らか分かる。こげんなったら人間な、絶対堕落の方へ落ちるんです。もうやっぱりゆっくり孫と寝とる方が楽です。
 これじゃったら折角娘が一心発起して、例えば願いが成就していきよるとを、今度は親父の方がずうっと引きずり落してしまう事になるじゃん。私は神様と言う事は信心と言う事は、神を信ずる力を作って行く事だと。私が寒修業の時に、陽子さんとお母さんが、交代で参って来る。だからお母さんが朝の御祈念に参って来ると、木簡渡すようにして今度は嫁が参って来る。なしか子供達が二人、こまかつどんが家に居るからと。
 さあそこをっさい私がそれこそ、振り捨ててお出でて成る程神様へ向こうておる時に、子供達にどういうこつのある事じゃない事を、これだけででも神の働きを信ずる事の出来る良いチャンスを頂き乍ら、そう言う事じゃそんなら、婆しゃまが朝の御祈念には参られん、あんたが参って来ると。と私が申しましたから、翌る日から二人が参って来る。結構家では子供達が帰るまで、ちゃんとおかげを頂いておると、そこに生まれて来るのが、体験でしょうそれが向かうのですよ。
 婆しゃまは向こうたばってん嫁ごが向かわれん。娘は向こうたばってん親父が方が向かわれんち言うなら、プラスマイナスじゃないですか。どころだけではない。折角何十年二十何年間、朝参りをし続けたお父さんが、それでちゃっと堕落するじゃないか。褌が緩むじゃないか。これは向かう事にならんでしょうが。私はその〇〇教会の月次祭がです、素晴らしい事だと。一家中を挙げて今まで参らじゃったつが、一家中を挙げてお参りをする。大祭のようなお月次祭が出来る。
 それだけであったら絶対人間ち言う者は、もう一家中参りよったつが三人。五人のつが三人になり、二人になり時には代表で参れと言うごとなってくるとじゃ。けれどもそうする事によって、おかげを受ける。事実信心を分からせて頂く喜びがです、体験として生まれて来るならばです。これは二回にして下さい、三回にして下さい。いや今まで通り四回、日曜のたんべんにお店は休ませて頂いて、その日は神恩報謝の日として。
 お月次祭を仕えて下さいと言う事に、もしならないとするなら、その教会は御比礼を落すと思う私は。だからほうそらよかのと言うて、そんならすぐ真似する教会もあるかも知れんけれども、信心は真似じゃ出来ん。今私が一番初めに申しますように、神という事はもう示すされるだけだ、言うて下さる事だけなんだ。自分達の信者の私共の得手勝手な事で、神様が動きなさるのじゃない。神様の方は聞くばっかり、神様は言うて下さる、示して下さるばっかり。これが神様と氏子なんです。
 だから神様が示して下さる言うて下さる事を、守りさえすりゃ絶対のおかげなんだ。しかもその向かい方によって、向こう倍力の徳を授けると仰るのだ。一つ信心はお互いよう、そこんにきを分からにゃいかんです。例えばそんなら、原さんの例を取りましたがです。そんなら千恵子、お前がお参りするなら俺が留守番しとこう。いやお父さんあんたが留守番しとってくれんのち言うて、いやそりゃ出来んぞと、皆さん言えるだろうか。俺のお参りだけはそんな訳にはいかんぞと。
 お繰り合わせを願って、子供の事はお繰り合わせを願うて、お前もお参りするでなからなければ、お前の信心な進んでも、俺の信心が落される。そげん言われたらよか幸いで、そんなら俺が寝とこうち言うてから、ちゃんと孫と一緒に寝とる。もう絶対人間なね、楽な方を取り出したら限りなく、いつか光昭が言ってましたが、楽な方を取り出したらもうだらだらと、楽な方にゃ早く転がって行くものです。
 信心じゃそれとは反対にです。向かう力というものは、段々段々強力になって行くのが、神へ向かうと言う事です。そして倍力の徳を受けにゃいかんでしょう。そんなら今原さんの所で言うなら、そんなら千恵子さんの願いも、成就しなければいけんでしょう。お前の、そういう願いを立てとるならば、俺達も又一段のお祈り添えを、いっちょさせて頂こうと、両親なら両親の者でも、頑張らせて貰うてこそ、初めて私は向かう事になると思う。神は向こう倍力の徳を授けると。
 だから向こう倍力ちゃ、ただ神様に向かって来よるという意味じゃない。いうならいかに神様に向こうておってもです。だらっとした向かい方であったら、今も申しますように手毬を壁に、そろっと投げるようなもんですから、全然こっちにゃ返ってこん。倍力の徳どころか向かうと言う事は、勢いよく向かうと言う意味なんだ。だから投げた手毬が、又手元の所へぽっと返って来る。信心に向かうと言う事はそう言う事。私は今日お夢の中に、ガラス張りの自動車をお夢頂いた。
 そしてある人が乗せてくれとこう言う。けれどもここのバスならバスと同じ事ですたいね、途中では止められん。だから乗せたいからそろそろ行くから、そこの止まられる所まで走ってこんのと言うけん、それで一生懸命走りよる。そるけんその人がきつそうにしとるけん、私も車から降りてからですね、その人と一緒にもう私は本当、夢の中でもあげん一生懸命走れた事は、初めてじゃったけども、自動車についてから走りよる。そしてその止まった所で、その人を乗せたところを頂いた。
 私は合楽の教会くらい、ガラス張りの所はないと思うですね。例えば勝手の方へ見えたら、勝手の方の裏の者の信心が一目瞭然に分かるでしょう。良かとこもある悪かとこも。だから出ておる訳です。悪かとこは隠しとけと言ったものじゃサラサラない。取分けここの財の取り扱いなんかは、それこそ一銭一厘の間違いもないごとハッキリした事。しかも総代さんとそれから、今経理を妹がやってますから妹と。時々子供達がお手伝いさせて頂くだけですけれども。若先生が主にそれをやっております。
 ですからそれこそ一目瞭然に分かるごとなっとる。よその教会じゃ是がないどげんなりよるやら分からん。昔から教会はガラス張りの教会と言う事は、随分一つの理想として言われたけれども。ここではそれが理想と言った風にも思ってないけれども、もう一切がつまびらかになっておる。是はだから財の問題だけではない。色んな事で所謂ガラス張りの、いわば徳と言うのじゃなかろうかと思うです。そこでです私は皆さんも矢張り、ガラス張りにならなきゃいけない。この事だけは親先生にお届けするけれども。
 ここだけはお届け出来ない、難儀な問題であっても。だから親先生はいつも、私の方の家の動きというものは、全部知って知り抜いておって下さるとでなからなければ、本当のおかげは受けられません。親先生にお届けすると直ぐあげんして、皆んなの前で話なさるけんで。私が話は絶対おかげになる話。けれどもそれこそご結界は秘密の厳守という事を。私はいつもモットーにしておりますけれどもです。それこそ口が裂けたっちゃ言うちゃならん事は。絶対その人のおかげにならん事なら言いやしません。
但しその事によって人もおかげ頂く。その人もおかげ頂く事は、昨日は誰誰さんが参ってきてこうじゃったと、私はお話をする。お取次ぎの実際を聞いて貰う。ですから皆さんもね、本当にガラス張りのような気持ちで、自分方の一家中の事は、それこそいうなら米が今どがしこあって、お金がどがしこあって、有るやら無いやらが。ちゃんと一目瞭然と分かるくらいにガラス張りにならなければいけない。そう言う事も私は今日は神様へ向かうというか、信じて向かうと言う、素晴らしいこれはおかげだと思います。
 神様を信じて向かう訳です。昨日は文男先生の所の家内のお母さんの、三十年の式年祭を致しました。本当に私は、昨日のそのお祭りを仕えて頂く事が、小唄にですね、梅は咲いたか、というのが有る。「梅は咲いたか桜はまだかいな、柳なよなよ山吹は浮気で色ばっかり」娘の四人をこれを表現した言葉です。四人娘が居る。元の秋永先生の所の奥さん、今本郷の京染め店に嫁入っておられる姉さん、石井喜代司さんの嫁のかおるさんと、文男先生の家内の良江さん、四人。
 どれが梅でどれが桜かなち言うて、言うた事でした。もう本当にお祭りと言う事の語源と言うのは、待つと言う事だと言われております。取分けこの霊神様のお祭りの時には、この待つという待ち合うと言う事の素晴らしい事を、いつも体験するんです。もう何年の何月は自分の三十年の式年にあたるから子供達が。所が後藤の家の御霊様を今預かっているのは、文男さんが預かっていっとる訳です。姉さん達も居るけども色んな事情で、そう言う事になってるんです。
 そこで昨年もお父さんの、何十年の式年祭をしましたが、今年ももうそれがですね、これ以上思いは込められまいという位に、思いを込めました。私は本当に有り難いと思います。信心ちゃ有り難いなと思います。自分の嫁後の里ですよの御霊様なのです。そしたら、神様からですね、私はどういう意味か知らんけれども。昔一の瀬焼には磁器が、今は陶器ですけれども磁器が出来ておった。もう非常に骨董価値のある今とても、それが貴重なものですけれども。その一の瀬の一升徳利です。
 その徳利に大きな栓がしてある所を、御霊様へお供えするのじゃなくて、こちらの方えお供えしとると言う様な感じで頂いたです。私はこれは文男さんが頂いたと思うのです。徳と利を頂くのは文男さん。ですから折角そういう、霊祭を仕えさせて頂くならばです。本当に神様が喜んで下さり、御霊様が喜んで下さる事の為に、思いをかけなければいけん。馬鹿らしか。形式的にでもするようなお祭りじゃ馬鹿らしか。本当に思いを込めさせて貰うてです、神様に喜んで頂くようなその心根です。
 嫁後の里の御霊様を文男さんが、一生懸命の思いでもう縁に繋がる者が、孫達まで昨日は皆んなここへおかげを頂きました。沢山なお供え見事な御直会それを本当に思いを込めておかげ頂いている。よう仏教で言います。今日は何じゃけんでちょっとお坊さんにお経いっちょ上げて貰おうと言う様な、そんお経いっちょ上げるでも良いけれどもです。ただ片付け事のようなことではいけないと言う事なのです思いを込めなければ。
 する事は例えばそれは些細な事で良いけれども、神様に喜んで頂くような心で、その霊祭が仕えられる。だからそれだけの事は、徳と利になるのは誰かち言うと、文男さんが受けるのですから。私は此頃以前は霊祭が仕えられると、御直会なんか頂かんとお下がりを下げよった信者に。最近はそれを絶対下げません。下げないと言う事がです、どう言う事かと言うと、それだけ又折角打ち込んだつを、向こうに返やすごたる事になるでしょうが。昨日も大きな鰤やら、鯛が来てましたけれども。
 そんならさぁ鰤と鯛だけは、あんたが持って帰らんの家で頂かんのち言うたら、もうそれだけは、又差し引かれる事になる、だから下げません。いわゆる折角打ち向かうたのですから、しかも神様に喜んで頂くような心で打ち向こうたのですから。それを私は倍力の徳を受けて貰いたいと思う。それが一の瀬焼に恐らく栓がしてあったから、中にはお神酒がこう一杯入っとるとじゃろうとこう思います。徳になり利になるものは、その一生懸命の思いを込めてした者が頂くのですから、やっぱりせにゃ馬鹿らしか。
 他の兄弟達がするとをいいや、これだけは俺にさせてくれと言いたい感じがする訳です。信心はいつもそこん所を習ってる訳なんです。何事にも真心になれよと言う事。もう家内がするち言うけんで仕様のなかけんでち、親父がついて来るぐらいな事じゃ駄目なんだ。文男さんが中心になってする。そう言う事が私は神様へ向かうと言う事だと思う。倍力の徳と利は、文男さんが頂いておるように、倍力の徳を神様は授けると仰るのですから。神様へ、今日は向かうという事。
 ただ向かうというとが、ただお参りしよりますと言うとが、手毬をそろっと壁に当てて投げる様な事では、向かうことにならないち言う。倍力の徳にはならない。向かうという事は、丁度銀行にね、例えて言うならば、素晴らしい、何か事業でも、思い立つ時に、金を借りに行くような気持ちです。勢い込んどる。ただ有り難い有り難いで、金ば預けげ行くごたる気持ちは、生き生きしたものが有りません。もうどんこんされんけん、金ば借りげ行くと言う、あれじゃ違うです。
 そこに大きな事業でも思い立とうと思うから、金でも借ってからでもとその勢いです。私は今日ガラス張りの自動車の事を頂いたのが、善導寺の方から合楽の方へ向かって来ておるという感じでした。これは東の方へ向かって来ておるという事です。だからどこ迄も、日の出の信心。東の方へ向かう信心。西方を弥陀の浄土と言う。西の方に向かうごたる信心じゃつまらん。お礼だけは申しよります、お詫びだけはしよりますち言うごたる信心ではね、もう必ず堕落するです。
 いつも例えばそんなら、今の合楽の信心で言うなら、五つの願いに立っての信心。私は昨日五つの願いと言う事でたまがった。高芝さん方の孫です二つですか今恵子さん。此頃ずうっと日田の方へ行っとりますからね。昨日お参りして来てから、ここでね五つの願いを言うのですよ。もう片言混じりで立派に言う。最後の誓いの言葉まで言う。いかにお爺ちゃんがちゃんと御神前に貼ってからそれを皆んなで拝むそうです。だからそれをそばで聞きよってから、ちゃんと覚えてしもうとる。
 皆さんとこはどげんなりよるでしょうか五つの願いは。五つの願いをすると言う様な、そういう願いが私は今日は銀行に金借り行くような、一つの勢いというものが神様へ向かう事になるのです。それを今日は、原さんの所の例やら、又は文男先生の所の例やら、又は私が今日頂いた事やらの例をもって、今日は神に向かうと言う事。神様はそんなら私共に言うて聞かせ、示して下さるだけである。それを私共が畏んで頂くというだけである。それをこちらが、我まま勝手に例えばお祭りを変えたり。
 自分の主義でするような事では。あまりに信心が合理的になりますと、おかげは受けられない。そこん所は千恵子さんと、お父さんの例をとったけれども。そげな事はちょっと、合楽の先生は無理なこと言わっしゃるねと、信心の無か者は言うでしょうけれども。そこの所がです。神に向かう事になるのだから、その勢いが神様へ向かう事になるのであるから徳を受ける。だからおかげになると言う事を、今日は聞いて頂いたですね。
   どうぞ。